市民性教育の推進における子どもの社会参画の意義

学校教育はどうあるべきか。

〜子どもの「社会化」から「主体化」へ〜

 

市民性教育と児童・生徒の社会参画 | CiNii Research

 

学習する民主主義(G.J.Jビースタ)とは

ビースタは、学校において「市民性 citizenship」を実際に学ぶ方法はほとんど考慮されていないと指摘した。

市民性は、子ども,若者,大人の日常生活を構成するプロセスと実践をとおして学ばれるべきである。

そこで、市民性教育の「主体化の構想」、すなわち、民主主義と民主政治に重点をおいた「学習する民主主義」を提起した。

これは、市民性教育の「社会化の構想」,すなわち、社会的に適応し統合的に行動することと結びついた、よきシティズンシップの観点から捉える考え方に相反するものである。

「学習する民主主義」とは、未来の「市民性」のための学習ではない。
つねに開かれており、また不完全な民主主義の実験への実際の参加から学習することである。

ここでの主体化とは、民主的な主体性が成立する目下進行中のプロセスである。

 

ビースタが「学習する民主主義」を主張する理由(4つの観点から)

1)市民性は、社会的なものか政治的なものか

市民性が社会的なものならば、それは社会の危機に対応するものであり、
市民性が政治的なものならば、民主主義における危機に対応するものになる。
両者は区別されなければならない(融合されるべきではない)。

これは、市民を形成するか、公民を形成するかの区別に対応する。

ビースタは、
革新的学習主義(子ども中心主義,21 世紀型学習論から批判教育学まで)と
保守的教育主義を批判して、教育の固有の意義を強調する「第3 の道」を提起している。

それは、
主体として存在すること(他の人間に,世界の中に,世界とともに成長した仕方で存在すること)の欲望を引き起こすこと」である。

これについて、ビースタは「人間の自由の問題と結び直すこと」であると述べている。

 

教育の目的とは、人格の完成であり、それは「主体」の形成である。
その主体化の諸領域は、自由を展開することにある。
したがって、教育とは常に自由への方向づけを伴うべきである。(というもの。。)

 

2)民主主義は、秩序あるものか、なきものか

ビースタは、民主主義は「秩序あるもの」という立場をとる。
民主主義は、政治的プロジェクトであるという視点からだ。

しかし同時に,秩序なきものの立場から、
既存秩序とそこに排除されたものとして、包含されていた人々との
「ディセンサス(不一致)」
を重視する J. ランシエールの主張を取り入れている。

そして、秩序の環境設定をし直すこと、また、
脱同一化(=民主的な主体化のプロセス)に着目した。

社会的排除問題への対応として、包含=包摂 inclusionではなく、
「主体化」への論理を展開しようとした。

これは、主権者であることの回復と、形式的なそれを乗り越えていくことであり
〈表−1〉の学習領域の展開を不可欠とするという。

社会的弱者を包含・包摂するのではない。
彼らは主権者であり、主権者として社会参画・変革していく存在である。

 

3)市民性教育のめざすものは、社会化か主体化か

社会化の構想は、既存の社会的・政治的な秩序の一部となるために必要な学習である。

主体化の構想は、民主主義(の実験と呼びうるもの)への関与にともなう学習である。

言い換えれば、
将来のシティズンシップへの学習と
現在のシティズンシップからの学習の対置である。

〈表−1〉は、個人の適応に焦点化する「社会化の構想」を実践的に乗り越えていく
「主体形成」の過程を示している。

既存の社会に合わせていく市民性教育ではなく、
既存の社会に参画させながら子どもの主体性を育んでいく市民性教育をめざすべき。

 

4)私的圏域から公共圏への民主主義

民主主義の実験は、線形的ではなく非線形的・繰り返されるもの・累積的なものである。

そのため、異なる民主主義の可能性にも注目すべきである。


「私的圏域」での社会的実践は、私的個人と社会的個人の矛盾を抱えている。

それは、私的→社会的→公共的な方向へ線形的・段階的に進むものではない


協同実践の「協同」は多元的・多様的である。

学習実践の諸領域には独自性があり、それは「異なる民主主義」といえる。

この独自性をふまえたネットワーク、また、
相互関係を生成する実践的な「時空間」の形成などに課題がある。

 

ビースタは、公共的領域について
地理的な場所ではなく、実践として理解されるべきものであると主張している。

公共性一般や公開性・公共空間・公共圏といった概念と区別されて、
協同・協働・共同の響同関係に支えられた「公共化」が重要な意味をもつ。

(鈴木敏正 2006:第III章,鈴木敏正 2016:補論 A など).

 

公共の場は、単なる地理的な場所でなく、
民主主義において、協同的に作られているもの(多様性を踏まえたもの)である。

 

 

以上のことから、

民主主義の実験に子どもが関与することを通して

子どもの政治的・民主的な主体性を促し、またそれに支えられるモデルを機能させる。

子どもの社会参画による民主主義の実験が求められているといえる。

 

A. センの「潜在的能力 capability論」は
人間的能力は、選択可能な実現条件があってはじめて現実になることを前提にしている。

(彼は1990 年代の国連・人間開発計画の理論的リーダーである)

これに基づき、我々の社会では、

民間を含めた学習条件を整備し、機会と条件の平等を与え、あとは「選択の自由」だった。

それだけでは、

社会的弱者や子どもは、新自由主義的な自己責任論に吸収されてしまいかねない。

 

子どもの参画型市民性教育(持続可能で包容的な地域づくり教育)が不可欠である。