環境教育と復興教育を例にした「持続可能で包容的な地域づくり教育(ESIC)」のあり方

市民性教育と児童・生徒の社会参画 | CiNii Research

 

持続可能で包容的な地域づくり教育
:Education for Sustainable and Inclusive Communities(ESIC)」 が求められている。

これは、誰でもが安全・安心に生き続けられるような地域・コミュニティづくりのための教育である。

 

主権者教育は、直接的には、政治・行政への参加(知事や教育長との討論集会など)である。

その基盤には、憲法教育・平和教育があり、
学校づくりだけでなく地域づくりへの参加の蓄積を重要とする。

宮下は、主権者教育を「持続可能な地域をつくっていく担い手、
つまり地域を守り、つくっていく主権者を育てる教育」として提起した。

そして、学校づくりを超えて、地域づくりへの生徒参加を実践している。


これらの活動は、H. ボイトの「組織活動としての教育にもとづく市民性」形成であり、
社会的問題の解決をめざして多様な立場の人々と協働する「パブリック・ワーク」である。

協同的な学習諸領域は、
それぞれが固有の意味をもちながら相互豊穣的に展開する(パブリック= 公共的)実践
として理解される必要がある。

それらを構造化するのが、カリキュラム・マネジメントや学校教育計画であり
それらは地域教育計画の重要な一環として位置付けられなければならない。

 

 

 

1)環境教育と市民性

 

市民性教育に求められている教科横断的教育領域として、環境教育がある。

環境教育は、国際理解教育(開発教育) などとともに総合的学習の代表例となっている。

しかし、学校環境教育は、環境問題の重要性の理解からだけで取り組まれるわけではない。

 

例)小学校高学年・総合的な学習の時間における実践(岸本, 2017)

岸本は、学級崩壊に直面し、あれこれ対応してみたがうまくいかず、自身がもともと「川がき」だったことを思い出して、学校近くの東条川を教材にすることを思いついた。

そこから始まった授業は、まさに環境教育そのものである。

ミネラルウォーターと水道水の体験的比較
水道水の源である東条川の調査
その汚染原因の探求
汚さないための生活や行動のあり方の検討
保護者や専門家の協力
学習成果の多様な表現・発表

といった流れである。

環境教育では、科学の成果や体験による自然教育を通して「知ること」に始まり
みずからの生活や常識を問い直して「人間として生きること」を学ぶような生活環境教育が必要である。

しかし、学んだだけでは「環境」そのものは変化しない。

学んだことを「なすことを学ぶこと」に繋ぎ、「ともに生きること」を学びつつ、「ともに世界を創ること」に参画していくような環境創造教育が求められる。

そうして学んだことの意味を総括し、その後の学習課題をまとめることも
大きな学習的意義をもっている。

 

こうした地域における環境教育を、
市民性教育の一環として位置付けることが必要となっている。

 

環境教育の理論と実践において、大森は

新自由主義的行動主義を越えるために、「協同的活動主体」の形成を提起している。

また、行動主体としての子どもの行動知・実践知を重視している。

最近では、「地域をつくり子どもの社会参画を育てる教育」の重要性を強調している。

これらは、表-1における
行動・協働学習、分配・連帯学習、自治政治学習の展開に位置付けられる。

 

 

また、森林環境教育は、幼稚園から高校まで

①野外で楽しく遊ぶ
②季節ごとの自然を体感して気づく
③環境の仕組みや人間と自然の相互作用を理解し、環境問題に対して自分なりの判断を下す
④未来に対して責任を持つ

という段階的発展をふまえた具体的なプログラムを構成している。

 

このように、市民性教育の一環としての環境教育を体系化し

一貫した環境学習の全体を構造化しつつ、

各教科と環境教育の関連を深めていくことが

学校環境教育の当面する重要課題となっている(鈴木・降旗 2017)。 

 

 

 

 

2)復興教育と市民性

 

石巻市雄勝小学校の徳水博志による実践である。

被災後、教育行政は、すみやかな学校再開」「教育正常化」に取り組んだ。

しかし、旧来の教育課程 を前提とした教育は、
被災地の子どもと保護者の実態と希望からかけ離れたものであった。

教師には、消極的であれ積極的であれ「教育課程の自主編成」が求められた。

徳水は、自らも被災しながら、子ども・保護者・地域の実際にねざした教育課程の編成が必要だと気付いた。

そして、震災復興教育を中心にした学校運営(経営)の提案を提起した。

基本的な考え方は
①〈子どもは地域の宝〉という子ども観
②〈社会参加の学力〉という学力観
③地域復興と一体化した「学校経営」観 である(徳水 2018:38)。

とくに②は、学校教育から地域を変革する教育論として注目される。 

 

具体的実践に向けて、まず総合的学習の時間のカリキュラムが編成された

目標は、「雄勝復興の活動に参加しながら、仲間とともによりよい暮らしをつくり出そうとする実践力を育てる」ことである。
当時、被災した子どもは、できるかぎり被災状況や被災を想起させる場面から引き離すという対応が多かった。
その中で、この目標はきわめて積極的なものであったといえる。
もちろん、PTSDなどに陥った子どもが多く見られた中では被災児の「心のケア」が大切にされる。
しかし、この実践は、被災体験を記録する活動へと展開し、やがて復興に向けた共同制作で、地域の将来をも表現する木版画「希望の船」づくりに発展している。
さらに注目されるのは、「雄勝復興の活動に参加」する実践である。
自主カリキュラム編成復興まちづくり協議会への参加住民アンケート実施復興市での南中ソーラン演舞伝統産業の硯づくりや漁業の再生
を含む「復興まちづくりプラン」の製作と発表など、ESIC に必要な実践のほとんどが展開されている。
被災地の、しかも小学校でそれらが取り組まれたことは驚嘆すべきである。このような復興教育・復興ESDに、市民性教育展開に不可欠な「子どもの社会参画」を位置付けた学校教育の可能性をみることができる。 

 

 

市民性教育の推進における子どもの社会参画の意義

学校教育はどうあるべきか。

〜子どもの「社会化」から「主体化」へ〜

 

市民性教育と児童・生徒の社会参画 | CiNii Research

 

学習する民主主義(G.J.Jビースタ)とは

ビースタは、学校において「市民性 citizenship」を実際に学ぶ方法はほとんど考慮されていないと指摘した。

市民性は、子ども,若者,大人の日常生活を構成するプロセスと実践をとおして学ばれるべきである。

そこで、市民性教育の「主体化の構想」、すなわち、民主主義と民主政治に重点をおいた「学習する民主主義」を提起した。

これは、市民性教育の「社会化の構想」,すなわち、社会的に適応し統合的に行動することと結びついた、よきシティズンシップの観点から捉える考え方に相反するものである。

「学習する民主主義」とは、未来の「市民性」のための学習ではない。
つねに開かれており、また不完全な民主主義の実験への実際の参加から学習することである。

ここでの主体化とは、民主的な主体性が成立する目下進行中のプロセスである。

 

ビースタが「学習する民主主義」を主張する理由(4つの観点から)

1)市民性は、社会的なものか政治的なものか

市民性が社会的なものならば、それは社会の危機に対応するものであり、
市民性が政治的なものならば、民主主義における危機に対応するものになる。
両者は区別されなければならない(融合されるべきではない)。

これは、市民を形成するか、公民を形成するかの区別に対応する。

ビースタは、
革新的学習主義(子ども中心主義,21 世紀型学習論から批判教育学まで)と
保守的教育主義を批判して、教育の固有の意義を強調する「第3 の道」を提起している。

それは、
主体として存在すること(他の人間に,世界の中に,世界とともに成長した仕方で存在すること)の欲望を引き起こすこと」である。

これについて、ビースタは「人間の自由の問題と結び直すこと」であると述べている。

 

教育の目的とは、人格の完成であり、それは「主体」の形成である。
その主体化の諸領域は、自由を展開することにある。
したがって、教育とは常に自由への方向づけを伴うべきである。(というもの。。)

 

2)民主主義は、秩序あるものか、なきものか

ビースタは、民主主義は「秩序あるもの」という立場をとる。
民主主義は、政治的プロジェクトであるという視点からだ。

しかし同時に,秩序なきものの立場から、
既存秩序とそこに排除されたものとして、包含されていた人々との
「ディセンサス(不一致)」
を重視する J. ランシエールの主張を取り入れている。

そして、秩序の環境設定をし直すこと、また、
脱同一化(=民主的な主体化のプロセス)に着目した。

社会的排除問題への対応として、包含=包摂 inclusionではなく、
「主体化」への論理を展開しようとした。

これは、主権者であることの回復と、形式的なそれを乗り越えていくことであり
〈表−1〉の学習領域の展開を不可欠とするという。

社会的弱者を包含・包摂するのではない。
彼らは主権者であり、主権者として社会参画・変革していく存在である。

 

3)市民性教育のめざすものは、社会化か主体化か

社会化の構想は、既存の社会的・政治的な秩序の一部となるために必要な学習である。

主体化の構想は、民主主義(の実験と呼びうるもの)への関与にともなう学習である。

言い換えれば、
将来のシティズンシップへの学習と
現在のシティズンシップからの学習の対置である。

〈表−1〉は、個人の適応に焦点化する「社会化の構想」を実践的に乗り越えていく
「主体形成」の過程を示している。

既存の社会に合わせていく市民性教育ではなく、
既存の社会に参画させながら子どもの主体性を育んでいく市民性教育をめざすべき。

 

4)私的圏域から公共圏への民主主義

民主主義の実験は、線形的ではなく非線形的・繰り返されるもの・累積的なものである。

そのため、異なる民主主義の可能性にも注目すべきである。


「私的圏域」での社会的実践は、私的個人と社会的個人の矛盾を抱えている。

それは、私的→社会的→公共的な方向へ線形的・段階的に進むものではない


協同実践の「協同」は多元的・多様的である。

学習実践の諸領域には独自性があり、それは「異なる民主主義」といえる。

この独自性をふまえたネットワーク、また、
相互関係を生成する実践的な「時空間」の形成などに課題がある。

 

ビースタは、公共的領域について
地理的な場所ではなく、実践として理解されるべきものであると主張している。

公共性一般や公開性・公共空間・公共圏といった概念と区別されて、
協同・協働・共同の響同関係に支えられた「公共化」が重要な意味をもつ。

(鈴木敏正 2006:第III章,鈴木敏正 2016:補論 A など).

 

公共の場は、単なる地理的な場所でなく、
民主主義において、協同的に作られているもの(多様性を踏まえたもの)である。

 

 

以上のことから、

民主主義の実験に子どもが関与することを通して

子どもの政治的・民主的な主体性を促し、またそれに支えられるモデルを機能させる。

子どもの社会参画による民主主義の実験が求められているといえる。

 

A. センの「潜在的能力 capability論」は
人間的能力は、選択可能な実現条件があってはじめて現実になることを前提にしている。

(彼は1990 年代の国連・人間開発計画の理論的リーダーである)

これに基づき、我々の社会では、

民間を含めた学習条件を整備し、機会と条件の平等を与え、あとは「選択の自由」だった。

それだけでは、

社会的弱者や子どもは、新自由主義的な自己責任論に吸収されてしまいかねない。

 

子どもの参画型市民性教育(持続可能で包容的な地域づくり教育)が不可欠である。

包括的教育、包括的という言葉について

「包括的」という言葉にアレルギーを起こす人が多い。

 

誰しも「正解」を求める。

医療:この病気には、この薬がよく効く。

算数:この問題は、こうすることでスムーズに解ける。

 

1:1の対応はわかりやすい。迷わなくて済むから。

統計的に確からしければ、それを行う方が全体にとって効率が良い。

 

教育もそんな傾向にある。

しかし、現場にいる子どもがみな統計的に当てはまりが良いわけではない。

なので、現場は混乱する。

うまくいかない子どもが出てくる。

 

「こうすればよい」というメソッドを盲目的に信じることは、

例えそれが統計的に最も良い内容なのだと算出されたとしても、

一つの方法を押し付ける、一つの型に当てはめることになり

偏った教育となりかねない。ここに教育の難しさがある。

 

そこで、包括的な教育は重要である。

物事はさまざまな側面から捉えられる。

 

一つの側面から物事を見るとき、それを盲目的に信じると

違う側面を信じる人を受け入れられなくなる可能性がある。

 

そこで生じる衝突を防がなければならない。

そのためにさまざまな見方を理解し合い、

平和的に物事を解決していくために、

多面的多角的な見方をすること、それを教えていくことは重要である。

 

例えば教育メソッドを編み出すことは素晴らしいことであるが

それはあくまで一つの教育方法であり、

実際にはさまざまな方法を用いて教育者は導いていく。

 

そうした教育の中の、一つが効果を生む場合もあれば

複数が組み合わさることで効果的に作用することもあり

いくつかが順序・段階的に作用することで

効果的であったという場合もあるだろう。

 

包括的な教育は、

これまでの一側面的な理解から

違う領域においても、同様のことが言えると認識させることによって

子どもの多面的な見方を促すものである。

また、

何がどう作用するかわからない教育の領域において

より良い状態へ子どもを導くために

コウカテキな方法であるといえる。

 

子どもは、さまざまな側面をその時々の発達段階に応じて自分なりに咀嚼して、

それらを全体のまとまりとして認識し

抽象的な見方を持つことができるようになっていく。

このことは、物事への深い理解をもたらす。

 

ということで、包括的は重要である。

養護教諭の活動過程、全体の流れ

養護教諭の活動過程は、大まかに5つです。

 

1)問題の受理

・児童生徒の訴え

・傷病の発生

・保護者や担任などからの相談や情報提供

・健康診断などの学校保健情報からの気づき

これらのことから問題を受理します。

 

2)情報収集とアセスメント

(1)緊急度の判断

まず、緊急度の高い症状や徴候がないかスクリーニングを行います。

 

緊急度が高い場合は、迅速に

・救急車の要請

医療機関受診の手配

・救急車や医療機関につなぐまでの救急処置

・校内連絡など を行います。

 

症状や徴候がある場合は、フィジカルアセスメントを中心に

・意識、バイタルサイン

・発症時期、部位、性状  を確認します。

 

けがなどによる外傷であれば、

受傷機転についても迅速に収集します。

*受傷機転とは、外相を追うに至る原因や経緯のことです。

いつ、どこで、どのようにして、どんなもので、けがをしたか確認します。

 

 

(2)ヘルスアセスメント

スクリーニングの結果、緊急度がそこまで高くないと判断した場合は、系統的アセスメントを行います。

頭から爪先まで、体全体を診るつもりで行います。

ヘルスアセスメントは

・身体的側面(外傷や疾病の可能性など)

心理的側面(自己概念、精神疾患の可能性など)

・社会的側面(ソーシャルスキル、人格形成や発達課題など)

・生活習慣の側面(発達段階に相応しいか、健康的かなど)

について情報収集します。

 

まずは身体的側面について傷病の存在を見落とさないことが重要です。

一方で、身体症状を訴えながらも、その背景に、心理社会的な要因を認める場合があります。

その際は、健康相談のプロセスへ移行します。

 

(3)養護診断

養護診断とは、

養護教諭がその専門性を発揮して、児童生徒やその集団について、様々な情報を収集しアセスメントを行った結果、心身の健康状態や発育発達の状況等について総合的に査定(判断し決定)すること

と定義される。

 

アセスメントで収集した情報のそれぞれが正常範囲かどうか、

緊急度の高い状態かどうか などを総合的に吟味する。

 

その結果、養護診断として

・緊急度の高い傷病の可能性

・緊急度は高くないが傷病の可能性

・このままの状態が継続すると傷病に発展する可能性

・発育・発達上に課題のある可能性

・人格形成に影響を及ぼす可能性

・生活上支援が必要な状況

などを見極め、解決・支援すべき問題や課題の有無を判断する。

 

 

(4)養護計画の立案

養護診断の結果、優先順位の高い課題から対応・解決策を検討する。

主に下の5つがある。

 

・緊急対応

 緊急度に応じて救急車の要請や医療機関受診の手配を計画する。

 

・救急処置

 重症化や二次損傷の予防、痛みの緩和など安全や安楽に配慮した処置を計画する。 

 

・保健指導・助言

 児童生徒に対する保健指導や、保護者への助言についての内容、それを行うのに相応しい時期等について計画する。 

 

・連携・協働

 保護者や担任、専門家、関係機関などとの連携・協働について計画する。

 

・事後措置

 いつ、何について、誰に対しての事後指導・事後措置が必要かを考えて計画する。

 

 

(5)養護実践・評価

養護実践は、養護教諭が目的を持ち意図的に行う教育活動と定義されている。

計画を実行し、その全体を評価します。

 

養護実践は、個々の児童生徒のみならず、学級や学校全体など集団を対象にしても行われます。

 

 

 

すり傷の手当て、湿潤療法と外傷性刺青

擦過傷の手当てについてです。

 

基本的な処置は、

流水(水道水で良い)で洗って、傷口を保護する

です。

 

患部を観察して、傷の大きさ、深さ、異物混入の有無を確認し、

悪化するような傷でないか、止血できたかを確認します。

 

 

さらに、この2つについて理解しておく必要があります。

1)湿潤療法について

2)外傷性色素沈着について

 

 

1)湿潤療法について

日本創傷外科学会ではこのように書かれています。

すり傷|一般社団法人 日本創傷外科学会 一般の皆様へ

30年以上前は、キズを乾燥させて治すことが一般的でした。
以前は抗生物質などが少なく、感染対策からこの考えが強かったと思われます。動物実験でキズを湿潤環境で治す方が早く治るという報告がでて以来、キズは湿らせて治そうとする考えが一般的になってきました。この考え方により、先に述べた創傷被覆材が発達しました。

しかし、この考えを誤解して、キズの回りの皮膚がふやけるぐらいまで湿潤にすると、かえって治癒は遅くなります。また感染があるキズを湿潤にすると、感染を悪化させることがあります

このため、感染がある場合には、一旦乾燥させて感染をおちつかせてから湿潤環境にすることもよくあります。基本的にはキズは湿潤環境で治しますが、私たちは「適切な」湿潤環境を考えて治療法を選択しています。

 

(創傷被覆材について)

キズを湿潤環境にすることで治癒を早める材料が多くあります。
創傷被覆材もその一つで、その種類は多くキズの状態で使い分けが必要です。また多くの材料はキズを密閉してしまうので、感染があるキズに用いると感染が悪化することがあります
キズからは滲出液(しんしゅつえき)という水分成分がでますが、キズによって多く出る場合と少ない場合があり、その状態で材料を選択します
滲出液が多くて創傷被覆材の中に液がたまりすぎると、皮膚全体がふやけてしまいキズの治りが遅くなることもあります。
時々一度貼ると1週間くらい貼りっぱなしでよいといわれていることもありますが、当然経過をみながら貼り続けてよいのか、それとも早く交換したほうがよいのかなどを適切に判断する必要があります。

 

傷を乾燥させずに、湿潤環境で治す方が早くきれいに治るという実験結果から

湿らせて治すことが一般的になり、創傷被覆剤が発達しました。

しかし、

・傷口がふやけるくらいまで湿潤にすると、かえって治癒は遅くなること

・感染がある傷を湿潤・密閉状態にすると、感染が悪化してしまうこと

がわかっています。

傷の治りを促す”滲出液”は、傷によっても出方が異なり、それによって被覆剤を選択することが必要です。

 

また、湿潤療法を行うにあたっては

子どもでは難しいので、大人が

患部を経過観察して

・感染がないか(腫れ・膿・痛みがあったりして悪化していないか)確認すること

・感染が見られた場合は、湿潤療法を中断すること

・そもそも、感染させないよう、患部を清潔な状態に保つこと

が必要になります。

 

学校では、一人一人に湿潤療法を行い、傷の治療(経過観察、洗浄等)をすることはできません。(※救急処置でできることの範囲外になります)

なので、養護教諭湿潤療法を自ら施すことはありません。

 

キズパワーパッドは高価なので、コストの問題でもあります)

 

 

ただし、家庭が医療機関から指示を受けるなどして湿潤療法をおこなっている場合は、それに準じて必要な手当てを施すことがあります。(滲出液が漏れ出してしまった場合に、上からガーゼを当てたり)

保護者の方と確認して、子供の健康上必要なことについてはお手伝いしますので

相談していただけたらと思います。

 

こちらも参考に

www.youtube.com

出血がないか、膿が出ていないか、滲出液が少量であるか

この3つの基準を満たせば、キズパワーパッドを使って良いと仰っていました。

これらが満たせていなければ、

ワセリンを塗って患部を保護し、傷の治り具合を確認します。

その後、数日経って基準を満たしていれば、使用できるとのことです。

 

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2)外傷性色素沈着について

 

日本形成外科学会による”擦過傷”についての説明では

外傷とは、その種類|日本形成外科学会

道路や塀などにこすりつけることにより、皮膚がすりむけた状態の創傷です。皮膚の損傷自体は浅く、多くの場合縫合せずに治ります。しかし、創面に微細な土砂、ゴミなどが埋入し、治ったあとも皮膚のなかに残っていしまう場合があります。
この状態を外傷性刺青といい、特にアスファルトなどの黒色の異物は治ったあとがかなり目立ちます。

このように書かれています。

 

外傷性の色素沈着を防ぐためには、患部を十分に洗浄することが大切です。

創の洗浄は、感染防止の上からも極めて重要で、時間をかけて丁寧に行う必要がある。大量の滅菌水生理食塩水、あるいはごく薄いヒビテン水で、ガーゼなどを用いながら創内の異物を十分に洗い流す。

medical.nikkeibp.co.jp

 

保健室で処置する際には

カット綿や大きい綿棒を使っていて

できるだけ綺麗にするようにしています。

 

ただ、子供が処置を嫌がってしまったり、

授業のことなど他に優先しなければならないことで急いでいる時は

十分に洗浄できないこともあります。

その時は、お風呂に入った時に、もう一度きれいに洗ってねと子どもに伝えます。

 

特に注意しているのは、鉛筆の傷です。

鉛筆で擦ると、黒鉛が残ってしまいます。

黒鉛は、粒子が細かいので、跡になりやすいのだそうです。

鉛筆でできた傷は、必ず保護者の方に手紙を書いて、

「色素沈着が気になる場合は、皮膚科をご受診ください」と伝えています。

養護と看護の考え方

養護とは

学校教育法第37条第12項において

養護教諭は、児童の養護をつかさどる」と規定されている。

 

1)

明治20年代にヘルバルトの教育の教授、訓練、養護という3領域の1つとして提案された

「日常生活において、栄養・空気・光線・衣服・保温・清潔・休息等の衛生的原則を遵守させ、不良な習慣を矯正して、健康を保持増進させる作用」を意味する。

 

2)

子どもの健康を守ることと発達を促すことの両方を目的とした活動であり、

教育活動の一環として捉えるものである。

 

3)

保育領域においては、"養護"を「生命の保持増進及び情緒の安定を図ることをねらいとした実践活動」として捉える。そして、「子どもの心身の発達を援助する」実践活動である"教育"と一体化して、子どもを育成している。

 

これらのことから、

・対象:子ども

・場面:日常生活

・目的:①心身の健康の保持増進

    ②発達の支援、発達の保障

・内容:教育活動

といった要素があると考えられる。

 

つまり、「養護」とは、子どもを対象にした教育活動を指し、

日常生活を通した子どもの心身の健康の保持増進、発達の支援・保障を目的として

実践されるという特質をもつ。

 

 

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看護とは

看護の原点を築いたナイチンゲールは、看護を

「健康を回復、保持し、病気や傷を予防して、それを癒そうとする自然の動きに対して、できる限り最良の状態に人間を置くこと」と定義づけた。

 

その後、ロジャースによって、看護は、健康の維持と増進、疾病の予防、描写のケアと社会復帰を支える人間科学であると述べられている。

 

このように、医療の高度化や治療・療養の場が地域へ移行することに伴い、

現代においては”看護”を、病者への看護のみならず、

健康の増進やヘルスプロモーションの観点から捉えるようになった。

 

日本看護協会では、看護を

「健康のあらゆるレベルにおいて個人が健康的に正常な日常生活ができるように援助すること」と示している。

 

看護は、あらゆる年代の個人、家族、集団、地域社会を対象としており、あらゆるヘルスケアの場及び地域社会にて実践される。そして、身体的、精神的、社会的支援として看護が実践され、これらの支援は、日常生活への支援、診療の補助、相談、指導及び調整等の機能を通して達成される。

 

 

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養護と看護の共通する視点は、

「人間」を対象とし、「健康」「環境」「生活」を重視するところにある。

 

地域看護において、学校は、公衆衛生看護を行う「場」の一つとして捉えられる。

すなわち、地域の中の”学校”という場に焦点を当てた実践活動の機能を持つ。

 

つまり、学校看護とは、

学校などの教育機関に所属する養護教諭として、

児童生徒及び教員の健康管理に責任を持つ立場で

学校教育活動の一環として実践されるものである。

 

学校という場を基盤として展開される教育的機能を有したケアの実践である。

 

 

個人化した人を癒す原点回帰

「個人化」の問題を解決するための方法や要因について調べていて見つけた資料です

http://www.j-lifelong.org/wp-content/uploads/2012/06/33-10-1.pdf

(教育において)価値伝達の目標を隠すのでもなく,かといって,むやみに同化や社会適応を迫るのではなく,個人の癒しによる原点回帰及び時空間の充実と,他者との出会いから始まる社会形成とが連続するものであることを示す必要があると考える。

 

アイデンティティ統合の理論と照らしながら読みました。

興味深いなぁと思ったのは、「癒しによる原点回帰」というフレーズです。 

 

個人化を社会化と一対のものとしてとらえるとともに,「癒しによる原点回帰機能」を両者の結節点として位置付けることによって,個人の社会化過程を全体的に傭職するプロセスモデルを設定した。

 

こういう語りのプロセスは人間に必要なのだろうと思います。

安心できる環境で、聞いてくれる誰かがいて、今していることと過去に体験したこと(原点)を振り返ること。

それがアイデンティティの統合に不可欠だと考えられているからです。

「個ー社会の統合理論」だったかな。

 

引用文の”結節点”について、個人的には

「癒しによる原点回帰」というよりは

「癒しを伴う原点回帰」の方が言葉としてしっくりきます。

 

癒されることで原点回帰するというよりは、

原点回帰することによって癒される感じ。

 

癒しは副産物。

なんだかスピリチュアルな方向に寄っていってしまったので終わります。

 

個人化した人を癒す原点回帰

 

 

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個人化ー個人批判ー自己責任化

社会化ー社会批判ー責任転嫁

個人域ー回想による社会統合ー原点回帰

社会域ー創造による個人統合ー