包括的教育、包括的という言葉について

「包括的」という言葉にアレルギーを起こす人が多い。

 

誰しも「正解」を求める。

医療:この病気には、この薬がよく効く。

算数:この問題は、こうすることでスムーズに解ける。

 

1:1の対応はわかりやすい。迷わなくて済むから。

統計的に確からしければ、それを行う方が全体にとって効率が良い。

 

教育もそんな傾向にある。

しかし、現場にいる子どもがみな統計的に当てはまりが良いわけではない。

なので、現場は混乱する。

うまくいかない子どもが出てくる。

 

「こうすればよい」というメソッドを盲目的に信じることは、

例えそれが統計的に最も良い内容なのだと算出されたとしても、

一つの方法を押し付ける、一つの型に当てはめることになり

偏った教育となりかねない。ここに教育の難しさがある。

 

そこで、包括的な教育は重要である。

物事はさまざまな側面から捉えられる。

 

一つの側面から物事を見るとき、それを盲目的に信じると

違う側面を信じる人を受け入れられなくなる可能性がある。

 

そこで生じる衝突を防がなければならない。

そのためにさまざまな見方を理解し合い、

平和的に物事を解決していくために、

多面的多角的な見方をすること、それを教えていくことは重要である。

 

例えば教育メソッドを編み出すことは素晴らしいことであるが

それはあくまで一つの教育方法であり、

実際にはさまざまな方法を用いて教育者は導いていく。

 

そうした教育の中の、一つが効果を生む場合もあれば

複数が組み合わさることで効果的に作用することもあり

いくつかが順序・段階的に作用することで

効果的であったという場合もあるだろう。

 

包括的な教育は、

これまでの一側面的な理解から

違う領域においても、同様のことが言えると認識させることによって

子どもの多面的な見方を促すものである。

また、

何がどう作用するかわからない教育の領域において

より良い状態へ子どもを導くために

コウカテキな方法であるといえる。

 

子どもは、さまざまな側面をその時々の発達段階に応じて自分なりに咀嚼して、

それらを全体のまとまりとして認識し

抽象的な見方を持つことができるようになっていく。

このことは、物事への深い理解をもたらす。

 

ということで、包括的は重要である。